「九州宮崎・くしま 未来養殖ラボ」の養殖場に足を踏み入れると、大田幸宏さん、大田佳成さんご兄弟がたった二人で営んでいるとは思えないほどの敷地が広がります。直径8mの水槽が25基、8m正方形の水槽が3基も並び、その中では元気に魚が泳いでいます。
美味しさと徹底した品質管理に定評があり、お客様からの信頼も高い「九州宮崎・くしま 未来養殖ラボ」ですが、ここまでの道のりは平坦なものではありませんでした。自然や生き物を相手にしていると、計画通りにいかないことが起きることも多々あり、時に想像もしない過酷なこともあります。
実家の家業でもあった鮮魚の仲買いの仕事を継いだ後に、ひらめの養殖をスタートさせた大田幸宏さん。ようやく養殖の仕事が軌道に乗り出した、そんな時に突如訪れた困難。その時から今日に至るまでのお話を伺いました。(以下、敬称略)
撮影=ワタナベ カズヒコ
長友
本日はよろしくお願いします。大田さんのお話を聞けるのをとても楽しみにきました。早速、当時の様子から伺ってもいいですか?
大田
もう13年前くらいのことになります。自然環境の変化により、ひらめが80%以上も死滅しました。年に2回くらい稚魚をいれていて、途中までうまくいくのだけれどまた死にだす。その繰り返しでした。
長友
80%も死滅するのは辛いですね。
大田
毎朝、養殖場にいくと死んだ魚を拾うところから一日が始まるんです。死魚を拾うのが仕事。それをクーラーにいれていくんですが、それも一つや二つじゃない。昼、餌やりをした後、また死魚をひろう。毎日その繰り返しでした。死んだ魚を顕微鏡で見て、何が原因なのかを考えたり、死ぬ前の魚を観察したり。原因が分かっても対処法がなく途方にくれていました。
長友
辛すぎる。。。
大田
それまでの取引もやめ、スタッフを減らさざるをえない状況になりました。当時は養殖場が二つあり、今の1.5倍以上の広さがありました。そのうち一つを閉め、弟(大田佳成さん)と一緒に再起をはかりました。
長友
大田さんは、そのときどんな気持ちだったんですか?
大田
当時は、出口の見えないトンネルの中にいるようでした。養殖業は運営コストも高く、売り上げはないのに借金だけがかさんでいきます。不安が大きかったです。何が原因か分からない中でもがいていました。
長友
それがどれくらい続いたのですか?
大田
10年くらいですね。
長友
10年?!その苦しい時を乗り越えられたのは、どうしてですか?
大田
僕たちにはこれしかなかったからね。僕は2年くらい休んだらどうかと提案したことがあるけれど、一緒にやっていた弟と僕の嫁さんが「絶対やめちゃだめだ」と言って。毎日、試行錯誤を繰り返しました。
長友
絶対にうまくいく日がくると全員が信じていたのですね。
「できることをやらなきゃ!」突き動かされてはじめた塩づくり
大田
そんな日々が続いていたので、何か今できることをやらなくてはと考えてスタートしたのが塩づくり。目の前に海水もある、薪-まき-もある。塩しかない、と思いました。塩は絶対にできあがる。失敗してもまた海水に戻して作り直せばいいから。
長友
失敗してもまたやり直せる、ってありがたいことなんですね。
大田
当時、塩をたいてゆらゆらと立ち上がる湯気や薪-まき-の火を見ていると心が癒されました。その塩づくりも初めてから10年たちました。
長友
再起をかけて奮闘していたときに誕生したのが、「夢の塩」なんですね。今では看板商品の一つですね。
長いトンネルの先に見えてきた一筋の光
長友
兆しが見えてきたのはいつ頃ですか?
大田
独自に作った海水のろ過・殺菌処理装置が一定の効果がでたときようやくトンネルの出口が見えた気がしました。それを元に、産学官共同研究開発支援事業で宮崎県や民間企業と連携してろ過、紫外線殺菌による水質管理システムの技術開発に取り組むことになり、今があります。
長友
あきらめない大田さんの姿に、応援者が現れたのですね。
大田
新しいシステムを導入して、3年目でやっと死滅する魚がゼロになりました。細菌の感染を効果的に防除できるようになっただけでなく、大幅なコスト削減にもつながりました。
長友
すごい!
一見、当たり前に見える奇跡の連続が、今日という日
長友
大田さんは、毎日、養殖場に足を運んでいるんですよね。
大田
年間400日くらい通っています。(笑)
長友
笑!本当にいつも楽しそうに仕事をしている大田さんの姿が印象的です。
大田
ぜんぜん飽きがこないよ。しんどかった10年をすぎて、ようやく魚を育てて出荷できるようになりました。他の人からすると当たり前のことに見えるかもしれないけれど、僕にとっては奇跡的なこと。いつもいきいき育ってくれてありがとう!という感じです。今までは「魚を殺さないような養殖」だったけれど、今は「より良い魚を育てる養殖」に変化してきています。
長友
常に、より良くすることを考えているんですね。
大田
そうですね。止まったらつまらないから。仮説、検証、記録をしてその繰り返しで、毎年レベルが上がっています。もちろん今でも思いがけないことは起きるんだけれど、あの死に拾いの地獄を味わったからなんてことない。
長友
10年、ですものね。
大田
本当に長かった。でも、一緒に頑張る弟もいたし嫁さんも支えてくれたから。串間市や県の人たちにも本当にお世話になった。周りの人にずいぶん助けられました。感謝しかありません。
長友
大田さんと初めてお会いした時から、とても応援したくなる素敵な方だなと感じていたのですが、その理由が分かった気がします。
大田
自分では気づかないところで、誰かが手助けしてくれていることもたくさんあると思う。人の縁は、自分の見えないところで誰かが繋いでくれたりしている。だからこそ、毎日毎日を精一杯生きるだけです。
長友
大田さんは、今を一生懸命生きることを積み重ねているんですね。
これからもチャレンジし続けていきたい
大田
仲買の仕事は昔から計画どおりにできるものではなかった。魚が上がらなかったら仕事がない。買えなければその日の仕事は終わり。年々漁獲量も少なくなり始めたのをきっかけに養殖をはじめた。いろんなことがあったけれど、ようやくこれから初めて計画的なことができるかもしれない、と思えました。
長友
これからは、どんなことにチャレンジしてみたいですか?
大田
今後は、今手掛けている魚だけでなく、いろいろな魚にチャレンジしていきたいと考えています。IoTテクノロジーを活かしながらAI化できるようになるといいなと考えています。85歳までは現役でやりたい!(笑)
長友
大田さんの好奇心、未知のものも受け入れるオープンさが素敵です。
大田
新しいものが好きなんですよね。こういう機械なんかも好き。より自然な環境で、美味しい魚が育っていくように、管理や運営をテクノロジーの力も使ってやっていきます。そして、また新しい仲間が増えていくといい。一緒に働く人が増えると、さらに活気がでると思います。
長友
チャレンジし続ける大田さん、そして「九州宮崎・くしま 養殖未来ラボ」のこれからが楽しみです。
【取材後記】
大田さんにとって苦しい時代の10年。今だからこそ言葉にできるお話を聞かせていただきました。あきらめずに信じ続ける力、今できることをやってみることの大切さを学びました。
そして、もっとも困難な時代を共に乗り越えてきたからこそ、大田さん兄弟の信頼と絆は深いものでした。時には喧嘩に見えるくらいぶつかることもあるそうですが、多くの言葉を交わさなくても、あうんの呼吸で仕事をしています「お二人の写真を撮りたい」と伝えると、少し照れながらも強く肩をだく姿が印象的でした。
10年後、今度はどんな「九州宮崎・くしま 未来養殖ラボ」の物語が聴けるのか。その日を楽しみにしています。
(長友まさ美/宮崎てげてげ通信 会長)